耐えがたくも甘い季節に




5階の講義室の窓から、秋が揺らめいていた。
ついついと大きな欠伸をする。
先程から講義の内容は全く頭に入っていない。
宙ぶらりんの23歳が過ごす、昼下がり。


今日こそは小春日和。


先週末はずっとずぶ濡れの泥だらけになっていたというのに憎いもので、でも逆に言うならてるてる坊主の効力が今日になって発揮されたということなのだろうか。
また欠伸が出て、考えるのを止めた。


ふっと、昨日の話が頭をよぎる。
高校時代の友人からの知らせ。
1年の頃に席を並べた級友が亡くなったという。
死因は自殺だった。


正直なところ、亡くなった彼とは特別仲がいいわけでもなかったし、話した回数もきっと両手で数えられる程だったに違いない。
それでも久々に聞いた彼の名前ひとつから、彼の表情、少し大きな眼鏡、放課後にバレーボールを抱えて体育館へ向かう彼の姿など、はっきりと鮮明に彼の面影を思い出すことができた。


可哀相だとか自殺はよくないとか、決意に至るまでの苦しみを知りもしない僕がとやかく言うのはきっと違うだろうし、ましてや級友の死を悲しむ自分に悦に浸りたいわけでもない。他人の死を「カワイソウ」と囃したてるのはちゃっちな映画の中のファンタジーだけで十分だ。


けれど、僕が昨夜感じた悲しみと遣る瀬無さを何百倍にもしたような抱え切れない程の重たい感情を背負ってこれから生きていかなければならない人は必ず存在する。
誰にだっている。もちろん僕にも。数の大小は関係ない。
このどこまでも続く秋晴れの空の下のどこかで、彼らは今はどんな表情をしているだろう。
そして、その目に今日の空はどう映っているのだろう。


きっと僕はまた忘れてしまうのだ。
今朝起きてから昼下がりの講義室まで彼のことを思い出さなかったように、夕飯を食べてまた眠りにつく頃には、再び彼の死を僕の中から追いやってしまう。

僕は白状で淡泊で、そして多分、普通だ。

この文章だって一体誰のために書いているのかわからない。
手向けになどなりやしない。
そんなつもりも、ない。


明日が葬式だという。
ただ、彼の灰が溶けていく空が今日のように晴れ渡っていてほしいとだけ願う。
彼のためにも、彼を強く想う人のためにも。


彼の話を聞いてほんの刹那、白い部屋で一人膝を抱えて、モラトリアムを気取っていた在りし日の自分のことを思い出した。
着信に怯え、チャイムに怯え、他人に怯えていた日々を今でこそ懐かしくも思うけれど、今こうして呑気に欠伸をしている僕はきっと運が良かっただけだったのかもしれない。


周囲に熱心にサルベージされて、どっかの魔女見習いが2時間で立ち直る程度の悩みや葛藤をこうして2年くらい引き伸ばして、「落ち込んだりしたけれど、僕は元気です」って言えば笑ってくれる人もいるのだから、運が良かったというより、きっと幸せ者だ。


秋が終われば冬になる。
全てが枯れても春にはきっとまた花が咲くだろう。
僕はまだ僕の続きが観たいし、多くはない観客たちにもまだ席を立たないでいてほしい。
たとえどうしようも無いほどの駄作だったとしても、フィルムが擦り切れてしまうまで映写機を回し続けよう。
観客を飽きさせないようにする努力だけは欠かさないにして。
FINの文字がスクリーンに映る日まで、刮目せよ。


欠伸に続いて、腹の虫まで鳴ってきたので講義室を出た。
もとより、内容など頭に入っていなかったのだから、腹を満たすほうが先決だ。
近くの定食屋でカツ丼を注文した。
少し顔の怖い定食屋のお母さんも、老眼鏡を掛けるとやさしい顔になる。
足りないものなんてきっと、それくらいことだ。全部。
今は分かったような顔をして、明後日辺りにまた恥ずかしくなればいい。


だって、今日は小春日和なのだから。